強迫性障害について色々と耳にする機会が増えました、今日この頃。
私が子供の頃などは、そんな障害があろうとは思いもよらず、・・・まあ、そもそも子供でしたから、それについて調べようなどと考えたことすらなく、ただひたすら、自分の異常さ加減に恐怖し、己の行く末がどこまでも案じられ、絶望感に打ちのめされたものでした。
己の将来がコワイ、と。
どん底の気分に及んでは、本気で「呪われている」などと感じたりして、それはそれは辛うございました
等々と言いますと、「またまた、大げさ…」のようですが、事実は正にそんな感じでして、大げさなワードを好き放題に書き立てて面白がっている、そういうワケではないのですよ。
そこで私の強迫性障害をマンガにしてみました。
どうぞ、ご覧ください。
どうですか、「全然、ワケ分かんない」でしょうか?
自分でもうまく説明できたかどうか、不明です。
強迫性障害全般について事細かに知りたい方は、是非ともご自身で検索若しくは書籍をもとにお調べくださいませ。(そうです「強迫性障害」と検索することで、すぐにも基本的な情報は得られます。たくさん出てきます)
おいおい…詳細に関しては、他に丸投げかい!
とどなたか、おっしゃいましたね?
そうおっしゃるのもごもっともです。
ですが、それにはそれなりのワケがございまして・・・
「どういうワケだ」という貴方様のために、これを書きましたのでどうぞお読みください。(このブログの目的についてちょっと触れてみました)
では、気を取り直して・・・
マンガ内で触れた≪強迫観念の強迫観念たる所以≫として
≪無意味だろうと何だろうと、それを「やらなきゃ」という観念に 囚われてしまう≫
と表現しましたが、その「やらなきゃ」というのは、理屈や理論などとはかけ離れたもので、何というのか、つい、やってしまうんですね。
やったことですっきりする、というワケでもないのです(私の場合)。ただ、やらないと、何か引っかかるんですね。気になるんですよ。
「それをやらなかったせいで、何か良くないことが起こったら…」のような、モヤモヤとした感覚が心にちょっと湧いてしまうんです。
やらないせいでいちいちモヤモヤするのも面倒なので、やっちゃえ、というふうでもあり。
「強迫観念」・・・読んで字の如く、何らかの観念が強く迫ってくる、そのおかげで強迫行為に及んでしまうワケです(注:脅迫観念、ではありません)(また私の場合、「強く迫ってくる」というのともちょっと違うのですが)。
子供時代、特にこれで苦しんでいた当時は、親にも友達にも打ち明けられず、一人で悶々としておりました。
親には言えずとも、仲のいい友達には言えそうなものを、と今ならばそんなふうに感じられますが、しかし当時は誰にも、どうしても言えませんでしたね。
そういう妙な行為に及んでしまってやめられない自分というのが、自分でも怖い。…自分自身そんなに怖いんだから、人に知られたら、さぞ怖がられるだろう、そんなふうに感じて、言えなかったのです。
自分はいつか発狂するんじゃないか、とそのようにも想像して、それはそれは怖かったのですよ。
人前では大変活発な楽しい子供でした。
そういうフリをしていたのではなく、友達と一緒の時はただただ愉快でしたから、自然と楽しく明るい自分でいられたのです。
恐いひと時に落ち込みたくないがために、仲のいい友達はもちろんのこと、さほど仲が良いワケではない友達とも、当時は結構遊びました。
通りがかりの知らない子にまで声をかけたりして、遊んでましたね。
ある意味必死です。
そして、そう、10年くらい前から、いやもう少し前か・・・強迫性障害を患う主人公の映画なんかも出てきたりして、おかげで強迫性障害の認知度が更に高められたのではないか、と思います。
中でもジャック・ニコルソンの「恋愛小説家」は面白かったですね(1997年。ということはもう23年前かびっくり!)
それから「マッチスティック・メン」というモノも見ました。ニコラス・ケイジですね。これも面白かったです(これは2003年。それでも17年前か!!)。
それにしても、強迫行為というのは千差万別なんですねぇ。
上記の映画に見るような主人公たちの奇妙な行為は、私のレパートリー笑にはございません。
というか、彼らの場合、特にジャックニコルソンの方は、人前でも堂々と強迫行為に及んでまして、・・・例えば、通りを歩く時にはあらゆる割れ目を踏まない(んだったか…)、そういう決まり事があるのでヒトを押しのけてでも彼は、奇妙な歩き方で通しておりました。彼の方が私よりも重症なんでしょう。
しかしこのように、公然とそれをやってのけられる重症者の方が少ないのではないでしょうか(ま、映画だから、っていうこともありましょうが)。
ところで、強迫行為あるあるとして、
- 「鍵をかけたかどうか」や「火の元」等の確認、これを何度もやってしまう
- 手洗いがやめられない
というのがありますね(「確認行為」と「不潔恐怖からなる洗浄行為」)。
私にはこれがないんです。(マンガ内の「ドアノブのカギをしばらく凝視」に関しては、一日にそれ一回きりなので、何度も繰り返すワケではありませんから、それとはちょっと違うのです)
手洗いに関しては、中程度の潔癖症のせいで(いや、中の上か)、手を洗う頻度は確かに増えてしまいましたが、一回普通に洗えば(1分以内)、キレイになったと納得がゆきますから、それを延々と繰り返すことはございません。
私の場合はもっと、・・・更に輪をかけて、無意味なんですね。
鍵の確認にせよ手洗いにせよ、まだ意味があるじゃないですか。
度を超すと確かに無意味です、がやはり、度が過ぎなければ、双方共に、正しい行為ですよ。
じゃあどのように無意味なのか。
いくつかの例をすでにマンガで表したように、
① 木目の顔に見えるところを踏まないように、且つなるべく早く通過する
② トイレから出たら、トイレ内を7回ぐるりと見まわす
③ 外出中、気に留まった看板などを3回振り返る
④ タンスの開閉を繰り返す・電気のスイッチをカチカチやる
というような行為は、やってる当人にはある種の意味があっても(恐怖心や不安に駆られ、ついやってしまうのだ、とか)、傍からするとどこまでも、やらなくてもよい行為です。
その行為は一回だけなら、正常なもの(手洗い・鍵確認)とはやはりワケが違い、これらの行為は一回やるだけでも間違いなく無意味、そしてそれを何度も繰り返すとなるとますますもってその無意味さ加減に拍車がかかります。
(私の強迫行為のほとんどが「儀式行為」にぴったり当てはまる若しくは類するものです)
因みに上の4つは子供の頃の強迫行為で、現在では、①②③の系統はほぼなくなりました。(それに近いことを、軽くやってしまうこともありますけれど)
④はその時々の精神状態によって、やはりこれも、軽くやることがあります。
(①とか④って、あるあるですよね)
アメリカに来て、ここ20年来の強迫行為がどんなものか、ちょっと挙げてみましょう。
A 文章を読んでいる際、既に読んだ個所を繰り返し読んでしまう
B DVDで映画鑑賞中、一旦停止する際に、イヤな場面で停止させないよう、マシな場面になるまでいつまでもポーズを押し続ける
C 何かに触れ、手を放す際に、決まった言葉を心で呟く(時には声に出し)
D 数字へのこだわり
E タイミング(間)の悪さを異様に嫌う
F パンツなどを履く際、穴に足をスッと入れられなかった場合、気の済むまでやり直す(虫の居所によっては、激怒)
G F同様、何事にせよしくじった場合はどこまでもやり直し(もちろん怒りと共に)
思いつくままに書いてみましたが、これらはほんの一例です。
慣れたようでありつつも、やはり、とても面倒くさいです。
Aはですね、Eの「タイミング」、そして「音」と関係しており、例えば、読書中に、何か聞こえてくるとします――犬の鳴き声、車が通る音、子供の声、鳥の声、風鈴の音――不意に耳に入ってきた音にイラっと来てしまうんですね。邪魔された、のような不快感が、例の「やり直し」を私に命じ、その邪魔の入った個所(文章)に戻って、一字一句スムーズに、流れるように、また一切の音の邪魔なしに、その文章を読み直すよう強いるのです。
その際、また、車が通ったり、鳥が鳴いたり犬が鳴いたり等々の音が聞こえてしまったら、そうです、やり直しです。静寂の中、流れるようにその文章を読み通すまで、それは繰り返されます。
小説などは特に一語一句、舐め回すように読み、多少なりともつっかえたりした場合、そうです、やり直しです。
B。「マシな場面になるまでいつまでもポーズを押し続ける」と、妙な言い方をしてしまいましたが、これは一旦停止(ポーズ)の場合と完全にOFFにする場合の両方を指しており、例えば、「ちょっとオシッコ」ということでDVDを止めた際、その停止した画面に何か、ひどく惨たらしい、それとも醜い、それとも不吉といった不快な情景で止まってしまった時などに、またPlayボタンを押して、「よし」と納得のゆく状態になるまで、ポーズとプレイボタンを交互に押し続ける、ということをしてしまうのです。
Cは、マンガに出てきた「サザエさん」「なんちゃって」のことでして、例えば、ダンナと息子の所有物に手を触れる時(そして手を放す時)に、「サザエさん」若しくは「なんちゃって」場合によっては「カンケ―ない」とよく言ってます。
それもこれも、彼らの無事を願ってのことなのです(気持ちが悪いですね笑)
と言いますのは、彼らの所有物に触れている時(お掃除の際など)、何かイヤな想念が頭に渦巻いているとします(特に朝、ネガティブな想念に襲われがちなので、そういう状態でお掃除など家のことをしていると、ムシャクシャするあまりつい、乱暴な事を思ってしまう傾向にあり)ーー殺気だって、汚い言葉や物騒なセリフを吐いてしまうこともしばしばでーー彼らの物に触れつつ、そういう言葉を発してしまうと、
そのおかげで何か良からぬことが、彼らの身の上に起こってしまうのでは・・・
のようにふっと、感じてしまうんですね。
その「ひょっとして、良からぬことが…」という気持ちには、いわゆる「強迫」という程に差し迫った、何かドラマチックな、強い恐怖感・強い不安が伴うというワケではなく、私の場合、その「ひょっとして…」はかなり漠然とした、モワアァっとした程度のものです。
が、それでも、気にはなるので、そういった邪念・邪気的なものを払うつもりで(ネガティブなすべてを打ち消すつもりで)「サザエさん」「なんちゃって」「カンケ―ない」などと、心の中でもしくは声に出して唱えてしまうのです。
「なんちゃって」はそのものズバリ、なんちゃってです。
「カンケ―ない」は、「そういったすべてのネガティブ思考や言動は、彼らとは無関係ですよ」「彼らの身の上はどこまでも安全ですよ」という思いが込められております。
「サザエさん」は、…察しのいい貴方はお気づきかと思いますが、そうです、サザエさんというのは平和・安全・安心の象徴のようなものですから、「サザエさん」と唱えることですべてが丸く収まるのです。(「サザエさんの秘密」とか、いろいろあるそうですが、それはこの際、置いといて)
D「数字へのこだわり」
強迫行為中に最も好んで使われる数字は、1・3・7・8・11(これは何回繰り返すかなどの回数です)(それとも何個食べるかなどの個数)
もっと大きい数字となると、15・19・23・26等。もちろん、その一つ一つに意味があります、が相当くだらないので触れずにおきます。(因みに1・5・7はお気に入りの数字)
E 「タイミング(間)の悪さを異様に嫌う」
「読書中、不意に耳に入ってきた音にイラっと来る」同様で、とにかくほとんど常に何かをしていますから(ボーっとしているように見えても、実は心中、独り言で大忙しとか)、そうした最中に何事にせよ中断させられると、やはり虫の居所によってはたまらなく不愉快になり、間の悪さを感じて、キイィーッ!!となってしまいます。 何事にも集中してかかりたいタチなので、わずかなりとも邪魔をされたくない、そういう心の表れかと。
F 「パンツなどを履く際~」
これもあるあるではないでしょうか? パンツでもストッキングでもスカートでもズボンでも靴でもスリッパでも構いません。何にせよ、そういう小さなしくじりも許せないのです。
GはFの続きですね。
「ゴミ箱にゴミを放り込むつもりが、失敗(これこそ超あるあるのようで)」「物をうっかり落としたり」「何かに引っかかったり」「ぶつかっちゃたり」「つまずいたり」――という様々な、小さなしくじり。そのすべてにカッとなるのです。そしてやり直し、となり・・・
・・・あまりにも心置きなく書いていたら、5000字を少し超えてしまいました。
「いやいや、まだ読み足りない」という貴方!続きがありますよ!!