そうです、「HSPというものも一通りではない」のですよ。
私のような人間は、攻撃性と平和主義が綯い交ぜになったHSPということになります。
平和主義といっても、いわゆる左翼とも違うわよ。念のため
「攻撃性と平和主義が綯い交ぜ」というのはいかにも矛盾するようですが、人間の内面には相反する感情や思いが平気で共存していたりするものです。
例えば、二つの正反対な思想、その両方に惹かれることが可能であるように、そうした自家撞着ともみなされるような多くの矛盾をヒトは色々に抱えているのです。(と、言い切りましたが、そうした傾向の有無や程度の違いは、やはり気質や性格によって異なるのでしょう。私にはその傾向が大いに認められます)
HSPのセルフテストの結果が私の場合、27問中24問YESでした、とお伝えしてきました。
そして前回、その後半辺りで、ハイとは言い難いHSPの特色についてもいくつか触れました。
27問中24問もYESと言っておきながら、なんでそんなにいくつも該当しない点が出てくるんだよ。ワケ分かんねぇ。
と誤解されてしまうような書き方をしてしまったかもしれませんので、ちょっとつけ加えますと・・・
テストに見られる問というのは、ピンポイントで表されているようでありながら、実はその一つ一つが、掘り下げるとかなり細分化され、事細かな事柄へと及んでいったりするものです。単純な問題であれば事は明白です、がそうでない場合はいくつもの解説や注釈が要されます。
というワケで、セルフテストの諸問題はざっくりした問いかけであり、それに対しざっくり答える、というのがこうした心理テストの流れとなります。(ざっくり答える、とはいっても、何とか自分にとって最適な答を選ばなければいけないワケですが )
そのようにして答えた結果が「27問中24問YES」であり、テストとは別に、細かな解説を読んでみると、そうです、いくつかの点で「これはあたしじゃない」「そういう言われ方をされると、ちょっと違う、あたしじゃない」となってしまうのです。
「こうしたテストはあくまでも心理を探るための材料であり、これによって最終的な診断結果が導き出される、というようなものではない」といった内容の伏線がアーロン博士のHPに在りました。なのでこの場合も、診断結果はあくまでも参考程度に、ということになります(=より正確な診断を得るためには、専門家による適切な診察が不可欠)
何だか、要らぬ説明を加えてしまったような気もしますが、どうでしょう・・・
そう、私はまだ、このHSPに関しては専門家の診断をあおいだことはございません。
ですがアーロン氏の本を読む限りでは、己のHSPさ加減が相当なものであることを思い知らされるばかり、なのでした。
別にHSPになりたくてなりたくてしようがない、などというワケではありません。ただあからさまな事実、と言わざるを得ませんから・・・こんなものを長々と書いてしまっているのですよ。
前置きはこのくらいにして・・・
長ぇよッ!!うぅぅうぅん怒
HSPに関する研究は1991年に開始され、1997年に「The Highly Sensitive Person : How to Thrive When the World Overwhelms You 」が出版されました。(日本では、「ささいなことにもすぐに動揺してしまうあなたへ。」として出版されております。が残念ながら、その翻訳に関してあまり良い評価を耳にしません。私自身はその日本語訳を読んだことはありませんが、そうした低評価の感想を聞く限りでは、お勧めできない、そんな気持ちにさせられます)
私がHSPについて知ったのは、ほんの去年(2019年)のことなのです。そのような研究がなされていたとは、まったく知りませんでした。
これを知ったことで、慰められた点、安心させられた点が私にもいくつかあります。 私がこれまで自分自身に対して抱いてきた疑問、それに対する答えのようなものをこのHSPの中に見つけることができた、と言いましょうか。
これまでに何度か私は、
こういう自分って、人でなし?
のような問いかけを自分に投げかけたことがあります。
●自分しか愛せない人でなし
●「一人になりたい」人でなし
●辛抱が足りない人でなし
●「人類の大半が、自分とは異なる生き物であるかのように感じられてしまう」人でなし
と、思い出されるままに挙げてみました(頭が悪そうですね)。
「自分しか愛せない~」と「人類の大半~」が中でも深刻な問題をはらんでいるように思われます。
とは言え、いつでもしばしばそれらを深刻に思い、考えてしまう、などというワケではありません。もっと言うと、この4つともすべて、平生は殊更に気に留めるでもない事柄なのです。
何かの折に、己の自己中心性を痛感させられることがあり・・・
「自分のことが最優先」である己が居ることを感じてしまう瞬間などに「人でなし」というのが浮かんでくるんですね。
「人間、終局的には自分が一番大事なの。突き詰めればみんな、利己的 。人間というのはそういう生き物ですよ。
人でなし、どころかお前は、人間そのものですよ。」
などという心の声も聞こえてきます。
独り身の時は「これでいいのだ(バカボン)笑」で居られましたが、晩婚ながら自分にも伴侶 ができ、子供まで授かってみると、これが笑では済まされないような、重い問いかけとして「人でなしか?」が響くようになりました。
「自己中心的」ならまだしも、「自分が一番大事」となると、それが本当なら「子供を愛する以上に、自分のことをまず愛しているのか、この私は?」ということになってしまい、・・・そこを突き詰めるのは、私にとってかなり恐ろしいものがあります。
だからあえて突き詰めようなどとは思わない、思わないんだけれども、浮かんできちゃうものはしようがありません。
お前は、子供のために自分の命を投げ出せるか?
のような問いかけ・・・
これに対し「もちろん!」と答えられるのが親というもの・・・それが世の通念であり、実際にそれが可能な親たちが大勢居る筈です。
それなのに、この問いかけに恐怖を感じる自分が居るのです。もちろん!とは即答できない「人でなし(?)」な自分。
そもそもアンタ、誰のことも、本当には愛せないんじゃない?
という声が、心の中に広がります。
いえいえ、ダンナも子供も、私にとって大切な存在でして、大切な人間ランキングがあるとすれば、彼らがその上位を行くことは間違いありません。しかし、「自分自身よりも? ホントに? 1位は結局自分、でしょう?」とその辺を想うと、やはりゾッとせずにはいられません。
女房失格。親失格。・・・・・全部総合して
人間失格。
なんていう言葉も浮かんできます。
(ですが、ご安心を。
自分を労わることに長けておりますので、不必要に己を責める、という方向へは向かいませんので…)
「ただ私は、馬鹿正直で、未熟者。それだけのこと」
とそんなふうに自分に言い聞かせたこともありました。そしてそれは事実かと。
35歳辺りで結婚して、それまでずうっと独り者で、ほぼ自分のためにだけ生きてきたような自由バカ、そんな状態の私でした。
つまり、そうです、未熟者なのです。
(独身者=未熟者、だなんてまったく、言ってませんよ! 私という人間が未熟者なのです)
そんな人間が、結婚し、子供ができたからといって自動的に「女房合格」「親合格」「人間合格」というような成熟した人間に変身できるワケじゃありません。
結婚してもう20年近くになりますが、私はまだまだ未熟者です。
私の場合、成熟するのに人一倍時間を要するのでしょう。
ダンナや子供のために、
.....自分の命を投げ出せるか?
などという問いかけには「その時になってみなければ分からない」というのが正直なところなのです。
実際にそうなってみたら、投げ出せるかもしれない・・・それともやっぱり、ダメかもしれない・・・という。(その土壇場になってみたら「つい思わず、投げ出す方向へ体が動いてしまっているんじゃないか」のように想像することもできたり)
こんなことをもし、世の肝っ玉母さんに呟いたら、
あんたねぇ、あんまり考え過ぎるから、ワケわかんないことになるんだよ。
あんたも人の親なら、だいじょうぶ、できますよ! 命を投げ出すことくらい。
土壇場になれば、できます!
という具合に活を入れられるんじゃないでしょうか。
そんなふうに単純明快なら良いんですけどね。
(深く考えがちなのがHSPですから、「あんまり考えるんじゃない!」と言われ、考えないようにすることの方が、拷問なのです)
そして、「一人になりたい」人でなし・・・ このことを思う時、ある出来事が浮かんできます。
20代半ばで親と同居、そんなある日、洗面所で身支度をしていた私のところへ母がやって来て、何やら言いました。そのとき何を言われたかは、この際重要ではありません。ただその時に、邪魔 が入ったことでキーッとなった私が、母に何やら言い返し、それに対して母が、
お前なんか、一人でどっか行っちゃえ!!
一人だけの世界に行っちゃえばいいんだ!!
のようなセリフを私にぶつけてきたのでした。いい歳した娘が未だ親の脛 をかじっているのですから、そうどやしつけられても致し方ありません(文句だけは一人前な私、なのですから)。
問題なのは、そんなふうに言われてちょっと傷ついた、などというワケでもなく、ただただその言葉が、とてつもない魅力を伴い私の心に響いてしまった、という点にあるのです。
「ああ、一人になりたい!」という心の叫びは特筆するに値しないいつものこと、なのでしたが、そのとき母が口にした「一人だけの世界」というのがまるでこの上ない理想郷のように想われたんですね。
そんな独りぼっちのパラダイスに、
行けるものなら、行ってみたいワ!!
と激しく願っている自分が居りまして・・・
究極の夢の国――独りっきりの夢の国、そのイメージが瞬時に私の心を領し、異様なまでにその境地に惹きつけられてしまったのです。
憧れの境地・・・
と、次の刹那、私の心にこんなイメージが浮かんできました。
私のカラダがピッタリ入るくらいの、浅めの箱に、膝を抱えた自分が横向きに収まっているのです。
・・・ぜんぜん楽しそうじゃありません。
まるで、生ける屍。
そこで私は、ハッと我に返り、ゾ~ッとしたんですね。
心胆を寒からしめる、とはああいうことかと。
それは正に死を連想させ、私をゾッとさせたのです。さすがに、これはいかん、と思いました。
ほんとうに、いけません。このようなことでは。
更に、辛抱が足りない人でなし・・・
これは主に学校生活を指しておりまして、これがどうにも、イヤでイヤでたまらなくなってしまうんです。いじめられたワケでもありません。
主に許せないのは、一定の時間、長々と皆と一緒に同じことをしなければならない――これが無性に辛いんですね。
「学校とは、学びの場・協調性を培う場所」ということはもちろん承知しております。本来は有益な場所なのだということも理解できます。
ただ、自分には耐えられないのです。好きな教科を学ぶのは楽しい、だけど人と一緒にやらねばならない、というのが苦痛。
おばさんなのに、学校生活?
・・・そう、ちょっと妙ですよね。
この話も長くなりそうなので、申し訳ありません、これに関してはまた別の機会に思う存分語らせてもらいます。
「人類の大半が、自分とは異なる生き物であるかのように感じられてしまう」人でなし
(長い!!)
読んで字の如く、なんですが、これまた話せば長~い物語ですから、ここではサラッと、何とか頑張って短めにお伝えしてみます。
★高敏感気質人間・HSP ③ に続く・・・