「人類の大半が、自分とは異なる生き物であるかのように感じられてしまう」人でなし
とは、どういうつもりで言ってるのか?
極々親しい数名の友人(小学校以来のつきあい)を除いては、どうも人々に対し、目に見えない深い深~い溝、若しくは縮めようのない遠い遠い距離のようなものを感じてしまうのです。まるでお互いが異星人同士であるかのような、奇妙な違和感と言いますか。
こうして文章にして表すと、何かちょっと普通じゃないみたいな、気妙な印象を与えてしまうのかもしれませんが、これを「なかなか人と馴染めない」という具合に言い換えれば、殊更に奇異なことでもなんでもなくなります。
じゃあなんで、異星人 とか持ち出すんだよ。なかなか人と馴染めない、仲良しになれない、とでも言っていりゃあいいだろうに。
妙な言い方をしたがるんじゃない!
というお叱 りの声が聞こえたような・・・
確かに、そのように言い表すことも可能です、が、それだけでは何かが足りないのです。それに対する私の思い、人に対して感じる違和感には、まさに「異星人」と言い表すに足る、得体の知れなさが含まれるので、そのくらいに遠いものを、越えられない壁のようなものを感じてしまうのです。
(実はこの「異星人」。「異星人」という別枠を設けてでも語るべきそれなりの経緯があるのですよ。
今それを言ってしまうと、脱線してしまいますからね。それに何よりもバカだと思われるので、今は言えないのです。今、貴方を呆れさせ、貴方に去られては困るのです!)
家族となるとまた話は違ってきます。
例えばダンナと息子。彼らに対し「異星人だな」というような気持ちは起こりません。いや多少感じるところはあるでしょうが、越えられない壁・遠い遠~い距離のようなものは無い、そう感じられます。
私の両親を含む肉親について考えると、…壁はない(壁ほど頑丈ではなくって、垣根のようなものはおそろしく在る)、どうしようもない深い溝、も無いような気がする。でも「異星人だな」という気持ちはかなり湧いてきます。
(とは言ったものの 、こういうことは状況次第で感じ方がコロコロと変わります)
こちらがそう感じるということは、私自身もヒトから「得体が知れない」のように感じられたりしているのでしょう。(実際これまで、それに近い感想を漏らされたことがありましたとおり。ミステリアス笑のような)
個性や我が強すぎる・協調性が足りない・甚だしい内向性などなどといった特質が、人々に対しておぼえる違和感の要因であることは察せられます。
これがもしも、団体競技大好き!団体行動大好き!といった人間でしたら、その行為の最中に得られる一体感、チームワークの素晴らしさなどを実感でき、ヒトの中に在って自分も溶け込むことが容易に可能な筈です(もちろんそういった人の中にも、例外はあるのでしょうが)。
みんなで事を成し遂げた時の喜び、それは本当に最高かと、私なりに想像はできます。…というか知っています。これまで生きてきて、団体行動によって得られる感動を一度も味わったことがない、などというワケではありませんので。
しかし、自分にとって自然に感じられるのは、やはり単独行動なんですね。一番これがやり易い。
スポーツ大嫌い。だけれども、水泳は得意。
そしてこれも、一人でできる運動よね。
・・・というように、自分に対して「人でなしか?」という問いが浮かぶ時、私は、人間として何かが大きく欠落していることを、ぼんやりながら、思ったりしたものでした。
先にお伝えしたように、私は、自惚 れのキツイ愚か者で、自分をやっつけることがとても苦手な人間ですから、そうしたことを思ってとことん凹みきってしまうなどということはありません。
ですが、自分に対し「人間としては欠陥品 」のような思いが浮かんでしまうことは、やはり悲しいものです。
HSPについて学ぶことで、自分に見られる好ましからぬ面が、物事に敏感に反応しがちな性情によって引き起こされるのだということを再認識させられました。
そして、そういった性情の故 に、外界の刺激から己を守るべく「一人になることを欲し」たり、過度な刺激に耐え切れず、己を楽にしてやる方向へと強く傾いてしまう―—それによって、「自分最優先的傾向」や「辛抱が足りない」といった状態に陥ってしまうのだな、と。
超繊細な気質であるが故の自己防衛対策 、そんなふうにも言えそうです。
自分しか愛せないのかも、などという自分に対する疑問も、先に記した自己防衛に関係しているとも言えるでしょうし、また掘り下げてものを考えがちな性情が、必要にも不必要にもあらゆる可能性を思い描き、そこからこうした疑念が引き出されてしまった、などとも考えられます。
そもそも「愛」って、簡単じゃないですよ!
ここでいう「愛」というのは、色恋に通じる情欲やら情熱とは完全に異なる、正真正銘 の愛、究極の愛を指しております。エロスに対する「アガぺー」の方、それともアガぺーに通じる愛、の事でございます。
この「アガペー(agape)」、広辞苑によると、「神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵 を与える自己犠牲的 な行為で、キリストの愛として新約聖書にあらわれた思想」とあります。
よって「アガペー」は、無条件の愛・無償 の愛・非打算的な愛、といった解釈のされ方もしております。
好き好き大好き!!の、いっとき激しく燃え上がっては、徐々にその火力が衰え出す、そういう種類のLOVE情欲とは、やはり全く異質のものです。
「愛」というのは、私にとってはまさにそれですから、・・・未熟者な私にはまだまだ高いハードルなのです。
こういう至高の愛を体現できるヒトというのは、そうゴロゴロ居るとも思えないので、そうなると、何も「自分しか愛せないのか?この私は?!」などと一人悶々 とする必要もなく、なんというか、
人類のほぼ全員が、そのようなもんだよ、あんただけじゃない。
というワケで、ちょっとはホッとさせられます。
しかし、・・・この「愛」について思う時、浮かんでくるのはやはり母親の事なんですね。
私と両親とは、意思の疎通 が困難な親子関係で、最悪な仲、というワケではありませんが仲良し親子などとは到底言い難いそういう間柄でした(私が日本に居た頃)。
反抗的で生意気な私でしたから、親としてはかわいくない子供であったんじゃないか、と思います。
そこで不思議なのは、その憎たらしい私を、母はサポートし続け、私が望む方向へむかえるようにどこまでも助けてくれ(人はそれを、甘やかし、というのかもしれませんが)、・・・そこがどうも、私には不思議なのです。
私は、親の期待を一身に背負って、などというような有望株であった試しは一度としてなく、いくつになっても風来坊 、そのような娘でした。親の果たせなかった夢を、子供に託され、などということも一切なく・・・
だからこそ自由にやってこられたのですが、同時にそうした親子関係が淋しく感じられることもありました。
期待をかけた可愛い我が子、というのならば分かります。いくらでもやってやりたくなることでしょう。でも私は、やはり彼らにとって微塵 も期待の星ではなく勝手なことばかりしている娘なのでした(いわゆる黒い羊的な存在ですね)。
それなのに私をどこまでも、見捨てることなく、支え続ける、っていうのは、何ということだろう・・・と、未熟者の私には不思議なんですね。
そういうのを無償の愛というんだろう、と考えないではいられません。親というのは、スゴイです。親はそれを「親なんだから当たり前」と何でもない事のように感じているようですが、私からしてみれば、全然当たり前のことではなく、スゴイこと、なのです。
それができない親たちだって居ることを思うと、尚更です。
くどいようですが、全然仲良し親子ではない、にもかかわらず、電話で話をする際など、母の声を聞くと、私の身を案じてくれているその心がよくよく伝わってくるのです(父もそうですけれど)。
何の見返りも期待しない、そういう愛情を感じるのです。
それはまるで「アガペー」か!?というくらいに・・・(厳密に言うとやっぱり、アガぺーではないんですけどね)(「愛」についてはまだまだありますから、また別の機会にでも)
私はまだ、両親に対して何も恩返しできずにいるバカ娘・親不孝者に違いありません。それなのに、それなのに、気にかけてもらえるとは!!
「愛」を熱く語るうちに、また話が脱線するところでした!
ムリヤリ戻します。
そう、人類の大半に対しておぼえる違和感・・・
人類の大半にいつ、いつどこで会ったって!?
・・・これなどはもう、HSPならばそのように感じて当然だ、ということですね。こういう気質じゃない人間がこの世の80%程を占める、となると。
と納得したところで、別にハッピーになれるワケでも何でもありません、が、理由のうちのいくつかを知り得たということは、なんだか一つ前進したような、そんな気持ちにさせられます。
やはり、こうして学んだことは、「答」というよりも、ヒントとか鍵のようなもので、そこから先は、自分自身で動いて、探してゆかなければならないのだ、と、このおばさんはつくづく思うのです。
貴方はどう思われましたか?
しかし、HSPであることを言い訳にして、己の悪い面を正当化したり「こういう気質だから仕様がない」と言って居直ったりすることの無いよう、私のような者は注意しないといけません。
HSPの皆さん、共に頑張りましょう!