修行ざんまい
格上げ
美魔女と呼ばないで
アンガー・イシュー(易怒問題!)
日本語の巻・パート1
日本語の巻・パート2
高敏感気質人間・HSP
強迫性障害・OCD
スーパー・サイ子 (連載1話)
などというと、ちょっと面白そうですよね。
事実は、全然面白くありませんでした。
面白い面白くない以前に、セラピー全体が機能せずに終わってしまったという感じです。
と言いますのは、その心理学者、大変高齢な方で、それ自体は何ら問題ないのですけれど、既に伝えたことを、新たな気持ちでまた質問されたり、そういうことが少なからずあり、更に、伝授していただいた、心を落ち着かせる方法も「なんだかなぁ」という感じでしたので、3-4回通って、やめてしまいました。
催眠療法協会、だったか何だか忘れましたが、その心理学者はそういったものに属しており、そしてお年を召しているということも私は「経験が豊富」とポジティブにとらえ、そこへ通ってみることにしたのでした。
お医者さんリストの写真を見て、おじいさんだと分かりました。実際会ってみると、更におじいさんだということが判明。
見た目の印象・動き・話しぶりからすると、80歳以上。実際はひょっとすると70代かもしれません。70代・80代でもとても元気で、話ぶりもしっかりしている方々というのはたくさんいらっしゃいます。しかし彼の場合はその逆で、健康的・若々しいという状態からはかけ離れたコンディションであることがよくよく感じられ、いろんな意味でちょっと心配させられる、そんな方でした。
EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法=心的外傷後ストレス障害に対して、施される心理療法)だったのか、それらしいことを少しだけやりました。
楽しいことを思い浮かべながら、腕だったか膝だったか、手でパタパタと軽くたたき・・・
うろ覚えで申し訳ありません! 肝心な細かいところは全然思い出せません!!
・・・とにかく! そのような動作を緊張する場面なんかでやると、心が落ち着く、とかそういうことです。
ムリヤリ自分に暗示をかけて「これはよく効く」と言い聞かせもしましたが、やっぱり「なんだかなぁ」――「別に効かない」という結果に終わってしまいまして。
こういうことはもう少し続けてみないとダメなんでしょうね。
しかし、先に書いたような理由で、通い続けるためのお金がもったいないと判断し、やめました。
催眠療法というから、テレビや映画で見るような、ああいうものをちょっと想像してしまいましたが、そういうのはありませんでした(もうちょっと続けていたら、そういうこともあったのかもしれない)。
そっから7~8年経つのか、カウンセリングやセラピーの類は受けておりません。
が、実は数日前、無料カウンセリングの予約を入れてしまいました(息子の学校と提携しているサポートグループがあり、そこを通してカウンセラーが紹介される。5月から8月末日までの期間限定)。
もっと早くに予約もできたのですが、やりたくなかったので、そのままにして、その間に大爆発が何度かありましたので、思い切って試してみることに決めたのです。
「タダより高いものは無い」ではありませんが、無料カウンセリングにどれだけのことが期待できるんだよ、とどうもその気になれず・・・しかしついに「ダメでもともと。ちょっと試してみるか」という気持ちになりまして、来週の火曜日に予約を入れました。
コロナのせいで、ZOOM MEETINGでやることになります。
どういうことになるか。
体験後の報告をお待ちください。
・・・こう色々聞かされて、
お前のカラダ、だいじょうぶ?
と心配してくださった方もおられるのでは?
そうです、怒るのは体に良くないのですよね。
怒りとストレス、この二つは密接なつながりがありますが、ストレスによって、鬱や高血圧が引き起こされたり、他にも心臓病や脳卒中も怖いですし、私は大丈夫ですが睡眠障害も誘引されかねないのだとか。
ここで、このおばさんのカラダの状態についてお伝えしましょう。
病院の待合室で、初診の時などに色々書かされますよね、過去と現在の病歴とか。
それを書いてるとき、いつも私は、まるで自分がものすごい健康体であるかのような気持ちにさせられます。たくさんの病気の名前が並んでいて、患っていれば、チェックを入れるワケですが、ほとんどすべてチェック無しですし、飲んでる薬にしても、たぶん、中年にしては少ない方ではないでしょうか(ここ2~3年、毎日飲んでいるのはアレルギーの薬のみ)。
そして毎回、血圧の検査では「GOOD」と言われますから、本当になんだか、自分がフレッシュな若輩者であるかのような気持ちにさせられるのです。
とはいえ中年ですから、精神面のみならず、体の方にもいくつか支障をきたしている部分がありまして、まずは右肩の「関節炎」(ああ、これは言いたくなかった。年寄りの病気の代表格)、それから IBS(過敏性腸症候群)に似たお腹の問題もあったり、あとアトピー(子供の頃ゼンソクがひどかった、が大人になってからは大丈夫に)、それに心身症的な問題のようですが、鎖骨のやや下あたりが痛くなるんですね。肩に近い辺りとか、痛みが中央の方へ移動したりして(咳をしたり、笑ったりすると、痛い)、気になったので診てもらうと(レントゲン)、原因は分からず。
毎年の乳がん検診もやってます。大丈夫です。他の婦人系の検査に関しても大丈夫です。
衝撃的だったのが、コレステロール値がとうとう上がってしまったということで・・・大変な数値になってしまいました。
トータル・コレステロール: 280(正常値 120~219)
HDL(良いコレステロール): 81(正常値 40~85)
LDL(悪いコレステロール): 180(正常値 65~139)
LH比:2.2(2.0~2.5はイエローゾーン)
中性脂肪:97(150以下だとノーマル)
血糖値: 正常
肝臓パネル:正常
腎臓血:正常
甲状腺:正常
去年の10月末の検査結果です。
これまで大丈夫だったのに、ついにこういうことになってしまいました(脂質)。
原因は分かってるんです。第一に甘いものを取り過ぎたから。結構自分を甘やかしてしまったので、そのせいなのです。ジャンクフードを取り過ぎたんです!
だってその方が楽しいからね!
血糖値スパイク、というのも怖いですし・・・
それで危機感を覚え、血液をもとに戻すために健康的な食生活を1か月やって、それからまたつい甘やかしが始まってしまい、・・・これではいけないということで、実は今日から、真剣にまた健康的な食生活を始めました。絶対に続けて見せます!!
でないと、本当に危ないですから・・・
私も前々から「心臓の検査しないと」と思っていたところに、こういう検査結果が出てしまったので、医者からも心臓系の検査を勧められ、受けましたところ、幸い何も問題は見つかりませんでした。
こんなに日々激怒しているので、心配してたのが、大丈夫と知らされ、嬉しいと同時に信じがたいような気もします。
受けた検査は「Cardiac score」とか、胸のCTというように医者は言っておりました。Cardiacは心臓を意味しますが、この検査が果たして日本語で言うところの何にあたるのか、よくわかりません。
私が受けるべき検査は、心エコー・心電図検査なんだな
と以前何かで学んだのでしたが、そのCardic scoreがこれらを指すのか、・・・分かりません。
あの検査だけでは十分ではないのかもしれません。
医者は私の激怒問題なんかも知っているので、この状況にふさわしい心臓の検査を私に受けさせた筈なんですけどね。
脳の検査は一度も受けておりません。
ちょっと怖いです。
でも、やらないといけないんでしょうね・・・
保険がきかないので、高額(これもまだやっていない大きな理由)。
運動もまた再開しないといけません。
コロナの影響でジムも閉まってましたが、また始まりました。行かないといけません・・・
あともう一つ、大きなチャレンジが。
私は動物の毛アレルギーで(厳密には、動物の毛・唾液・フケなど)、毛の生えた動物のいる空間では、のどや胸の辺りがヒーヒー言いだし、鼻が詰まりだしたり、また動物に触れた手で目を触ったりするともう、無性にかゆくなり、しまいに目の周りが腫れて、スゴイことになります。
しかし犬を飼っておりまして、外犬なんですけど(POGOちゃん)、いろいろありまして、外犬から家犬にしてあげるために、アレルギー撃退・完全克服をもくろんでいるのです。
私のこのアレルギーがある限り、ポゴを家犬にしてあげることはできません。
このチャレンジは私にとってアレルギー克服のみならず、私のOCD(強迫性障害)や潔癖症問題の緩和につながる荒療治となりますから、是が非でも成功させたいのです!
アレルギー完全克服って何よ・・・
何のことよ!?
ごめん。今は言えないの。また長くなっちゃうから。フフ
近いうちにお話しします。
もったいぶってんじゃねえ!!
・・・・・・このように私は、全然あきらめておりません!
皆さんも、あきらめないでね😊 (何を?)
あ、忘れるところでした・・・ちょっと野暮な注釈をさせてください。
マンガ「修行ざんまい」の中で言ったことに対し。
皆さん、私が本当にサイ子同様に、いつもプロレスラーの格好をしている、とお思いですか?
荒療治の一環として。
なんだ、そうじゃないのかよ!?
と言われた方、ごめんなさい。もちろん、そうじゃないのです。
その点は全くのフィクションということでお許しを・・・
★修行ざんまい★でも触れたように、好ましくない言い方をすれば「神経質」もっと正しく言うなら、そうです、繊細・デリケートなのです。
繊細・神経質であるがために、些細なことで動揺し、些細なことでイライラ・爆発してしまうのです。私の場合は。
「私の場合は」と申しましたのは、HSP(高敏感気質の人間)の特徴として、攻撃性とは逆の性質がしばしば指摘されるとおりでして(自信の無さ・消極性・周りに合わせ、自分を見失いがち=弱いイメージ)、私も人前では、なるほど、周りに合わせがちではあるけれど、自分を見失うことなど一切なく笑、また平和第一と願いつつ攻撃性も具えているので、私のような人間は、HSP、だけれども暴れん坊なのです。
(★高敏感気質人間・HSP①②③もあわせて、どうぞ)
人里離れた山奥の一軒家、そこに一人暮らしってワケじゃないよね? ダンナも子供も居て、周りにご近所さんなんかも居るんだとすると、大暴れとか絶叫とか、・・・どういうこと? 普通、できないよね。
はい、そうですよね。普通、ちょっとできません。なので、そういう意味でも普通じゃない、ということになるのでしょう
ここは住宅街です。が、家と家の間隔はそんなに近くはありません。とはいえ本気で絶叫したら、表までその声は届いてしまうことでしょう(家の中に居る人たちの耳にはさすがに届かない筈かと)。
なので多分、何度か私のシャウトは聞かれているに違いありません(本物の絶叫はなるべく控えるようにしています)。近所づきあいはほぼ無いので、・・・まともに近所づきあいしてたら、恥ずかしいですよね。
もっと気になるのは、そうです、私の問題と向き合わざるを得ないダンナと息子の存在です。
心から申し訳ない、と思っております。
しかし激しい怒りに駆られた場合、完全に理性を失いコントロール不能になったことはまだありませんが、それに近い取り乱しようなので、彼らの目には私が制御不能な状態に見えるのではないでしょうか。
ダンナに負わせてしまう心の負担、と同時に、思春期の息子の精神に好ましからぬ影響を与えていることは間違いないので、その辺を思うと、気がかりでもあります。
息子の目には、私という母親がまるでジキルとハイドのように見えているのかもしれません。激しい落差――大丈夫な時と大丈夫じゃない時の浮き沈みが、自分自身耐えられませんから、息子にとっても見ていて(そして聞いていて)堪らないに違いありません。
私が日本に居た頃、両親と深く話し合えたことがなかったので、この点がとても残念に感じられることから、私は息子の話に耳を傾けるよう、やってきました。
なので彼とは下らないことからまじめなことまで、けっこう色々と話し合っております。
そして、世の友達親子の在り方をダメ出しつつも、小中学生のようなふざけ方を息子と一緒にしていることがしばしばあり、何というか息子は、私にとって、この世で一番自分のバカを曝け出せる相手というふうにも言えるようです(大爆笑も多々あり)。
通常私はヒトに向かって変顔など、絶対にやらないのですが、息子の前ではつい気まぐれに、本物のグロテスクな変顔を披露することもあり、また突如異様にハイテンションになってみたりで、・・・そんなふうに楽しいお母さんが、何かの拍子に恐ろしいヒステリーババアに変貌してしまうので、本当に、申し訳ないです。
彼らの前ではなるべく、モノへの虐待も控えるようにしてますが、それでも、椅子を蹴りつけたり(1回だけ)流し台をぶん殴ったり(これは1~3回)、そういう場面はつい見せてしまっております。
ダンナへの思い、これはちょっと複雑でして、彼に対しては、最大の味方である、と同時に最大の敵であるかのように憎らしく感じられてしまうことがあります。
最大の味方としてのダンナ、これについて申しますと、
そんな色々やってくれる良い旦那さんで、なに文句言ってんだよ。おまえ、ゼータクだよ。おまえが断然悪いよ!
のような感想を持たれそうですし、また「のろけてんじゃないよ」のように思われては更に不本意ですから、触れずにおこうとも思いましたが、まったく触れないワケにもゆかないので、なるべくサラッと、その辺もお伝えいたしましょう。
彼は料理が好きです。なのでけっこう料理もやってくれます(夕飯は私がやりますが)。それ以外の家事などもお願いすればやってもらえます。
またいわゆる裏切り行為的なことも無い、と断言致します。裏切り行為ができる金銭的余裕もなく、実際お金もほとんど使わず、友達も私同様少ないので、仕事からまっすぐ帰宅、あやしい電話の類やら、とにかく考えられる限りのあやしいサイン(兆候やら形跡)がまったくありません。
騙されてんだよアンタ。
と言われればそれまでですが、はっきり申しましょう。
どんなに小さなあやしいサインでも、断じて見逃しませんよアタシは!!
また、話もよく聞いてくれます。
第一に、こういう問題多き私なのに、全面的に受け入れてもらえているーーそこを実感できることから、彼に対する信頼感と感謝の念はかなり大きいです。
他にもまだ出てきそうですが、やっぱりおのろけのように受け取られたくないので、このくらいにしておきます。
彼が最大の敵に感じられる要因――時に小憎らしい・小生意気な言い方をする・放置癖・散らかし癖・やることの多くが中途半端・お願いしてることはなかなかやってくれないのに、やらなくていい事(むしろやってほしくない事)に関しては率先してやってくれる・愚にもつかない言い訳をするーー等々、まだまだ出てきそうですが、まあ、夫婦ものにはよくある話の類です。
こういう小さなイライラの積み重ねが、溜まりに溜まって、無性に許せないような気持ちにさせられたりするんですね。
そんなこんなでカーッとなっている時などは、
テメエだよ・・・!
テメエがあたしを狂わせるんだよッ!
と、また非常に口の悪い私が出てしまい、彼が日本語を理解できないのをいいことに、日本語で罵倒しまくる、なんてことがしょっちゅうです(面と向かってではなく、激しい独り言という形で)(ケンカとなればもう、それはそれでまた、口の悪い私が出てしまうのですが)(しかし決まっていつも、仲直りの大団円で終わらせるようにしています。基本的には平和主義者ですからね)。
というように、彼らによって心がかき乱されることは多々ありますが、それもこれも私の過敏性のためであり(と言いつつ「100%自分が悪い」などとは到底思えない私。なぜなら「私の憤 りというのは、正当な怒りがほとんど」と信じて疑わないので)・・・どんなにイライラさせられようが、彼らが私の支えになってくれていることは確かです。なので彼らのためにも私は、これら諸問題を克服しなければならないのです。
そのために試みたことの第一発目が、カウンセリングでした。
もう10年ちょっと前の話です。
男のカウンセラーでした。
ジェフという恰幅の良い中年で、髭面。カジュアルな感じ(フレンドリー風な態度・話しぶりでありながらも、表情にやや強張りが)。
カウンセリング・ルーム内全体の印象は可もなく不可もなくでしたが、カウンセラーの前に座ると、いくつか気になるアイテムが目に飛び込んできました。
それらが何だったか、すっかり忘れてしまいましたが、スポーツ関連の何かでした。ゴルフとか野球とかフットボール・・・とにかくスポーツに関する置物と言いますか(スポーツ関連の本もあり)。
そこでまず、がっくり。
ああ、場所を間違えたア!
という心境です。
私の心を、キミに掘り下げられるかな?
のように、そのスポーツ系カウンセラーをつい侮ってしまったんですね。
いえ、スポーツ系の人々すべてを否定しているのではないのです。
「スポーツマン=脳みそも筋肉」なんて偏見があたしの中にもちょっとあるけど、それは間違いよね。知性派スポーツマンだってたくさん居ますもの。
スポーツ好きだけれどもとても優秀なカウンセラー、精神科医、心理学者も居るに違いありません。
ただそのカウンセラーが、軽めに見えちゃったんですね。チャラい、というのとも違うんですけど、ちょっと深みというか重みというか、そういう要素が足りな過ぎたのです。
しかしそれでも、カウンセリングを受けるからには(良い結果を得るためには)、そういう意識に蓋をして、全面協力を心掛け、試みたのです。
2回目からダンナも交えてのセッションとなり、時には別々だったりで、けっきょく全部で10回くらいでしょうか、カウンセリングを受けたのは。
カウンセリングの目的はアンガー・マネジメント(怒りの感情を制御するスキルを学ぶ)だったのですが、次第にダンナの転職やキャリア的な方向へ重点的に話が傾き出し、・・・そもそもそのカウンセラーはスポーツ選手やビジネス関連のカウンセリングが専門だったので、無理からぬ流れではありますが、その辺で、そこでのカウンセリングに対する私の意欲はすっかり萎えてしまったのです。
また、彼の方からも「心の裡側を深く掘り下げてゆく、といったことは僕の専門外なので・・・」と言われもしたことから、もう通う意味はないと悟り、それっきりとなりました。
私たちが加入していた保険の関係から、その人を安易に選んでしまい、彼の専門について知ったのは2回目のセッションからということになってしまって・・・これを教訓に、次回からはしっかり吟味してヒトを選ばないと、と学ばされた次第です。
最初の印象通り、そこでのカウンセリングは場違いではありましたが、一つ良いメソッドを学びました。「アクティブ・リスニング」といいます。
直訳すると「活発に積極的に聞く」となりますか。
人間関係を円滑にするための方便として、夫婦関係に限らず、これはなかなか良いものだと思いました。
基本は人間2人で行います。どちらが話す側になるかを決め、もう一方は聞く側に徹する。話者は心にあることを何でも語ってよく、聞き手は、単なる聞き手としてボーッと聞いていればよいというワケではなく、あくまでも「アクティブ」に、相槌をうったり、話を掘り下げる助けとして質問を投げかけたりするんですね。
その間にやっちゃいけないのは、話者の言っていることを否定したり、助言的なことを口にしたりしてはダメなのです。どこまでも肯定的に耳を傾けてやるのです。
やってみるとこのアクティブ・リスナーの役割というのが簡単ではない、ということが分かります。夫婦間でやるとなると、つい、相手の言ってることに対し、己の意見を挟みたくなっちゃうのです。話題が自分らの問題に関して、となると尚更に、黙って聞いていられなくなり、つい、自己弁護的なことを口走ってしまったりで、・・・数回試みて、それっきりになってしまいました。
惜しいです。
ちゃんとできれば本当に素晴らしい結果がもたらされるので。特に話す側にとって。
自分の言うことに対して、相手がそのすべてを肯定的に、そしてじっくりと耳を傾けてくれているのだと実感することで、
そんなにまで話を聞いてくれて、ありがとう!!
という感謝の念がビックリするほど湧いてきます。そうすると
今度はあなたの話も、じっくり聞いてあげたい! 何でも話してちょうだい。丸ごと受け止めますから!
という欲求まで沸き上がってくるのです。
これに関しては、完全に私が敗者です。
ほんとうに私は「聞いてくれてありがとう!」という感謝の念でいっぱいになり、感動すら覚えたくらいなのに、自分がリスナーになった途端、気がついたら遠回しに自己弁護したり、ダンナの言ってることを訂正してみたり、というようにやっちゃいけないことを、つい、やってしまうのでした。ダンナの方が、アクティブ・リスニング上手でした。
などというと、私が如何にも自己中かつ自己顕示の強い面倒くさい人間のようですけど、普通の会話では、私はかなり人の話をよく聞きます、本当です!
やっぱり相手が夫だと、つい甘えが出ちゃうんですね。身内だとこれは難しいです。
ところで皆さん、こんなことを聞かされて、どうです、楽しいのでしょうか・・・?
何だかまた、要らぬことをどんどんお伝えしているような、そんな気持ちになってしまい、ちょっと不安です。
私はいったい、どこまで書いたらよいのでしょう・・・
「次に受けたセラピー、そのことも書け」
って、聞こえてきます(心の中で)。
うぅうん・・・
そう、じゃあ、書きます。書いてみましょう。
「なるべく短めにな」
はい。
皆さん、私は大丈夫ですよ笑!
私などは毎日毎日、怒って怒って、怒り倒して、もうボロボロです。
昨日はまた衝撃的なことがあり、私は家の地下で暴れてしまいました。
貴方は、こんな経験ございませんか・・・もう疲れ切って、口もききたくない、でも腹の底から絶叫してやりたい、叫んで叫んで、そうして何もかも、ぶち壊してやりたい!!・・・のような経験。
「体内にエネルギーがもう無い。ほとんど無い」という状態で叫んでごらんなさい。卒倒しそうなくらい、疲れますよ。
もうエネルギーダダ洩れ で、ぐったり。それなのに、怒りが鎮 まらない。もうガマンならない・・・
ワァアアアァアァアーッ!!!!!
と、己 に鞭打 って、叫ぶのです。スゴイ疲れてるのに。
やってみてください。物凄く疲れた時に。
何もやりたくなくなりますから!
実に、痛々しい。
いったい、何にそんなに腹を立ててるの?
・・・もう全部、ぜんぶです! 小さい事から大きい事まで、ぜんぶ!!
どの程度の小さい事?
普通ヒトが怒らないような些細 な事柄―—小さなしくじりの数々―—物を落としたり・ちょっと何かに引っかかったり・ちょっと何かにぶつかったり・パンツに足を通そうとして、親指がパンツの股の部分にちょっと触れちゃったり、とにかく、自分の意志に反することならば、どんなに小さなことであろうと、カーッとなるのです。気分最悪な場合ですと、本気で激怒してしまうのです。(この辺のところは、★強迫性障害★ でちょっと触れましたね)
そして、そうです、そんなふうに私の邪魔をしたモノをコテンパンにやっつけてやるのです。
(ここでちょっと、マンガ内で表された私の暴力行為について注解させてもらいます。
サイ子がブタを痛めつけておりますが、実際のところは私、ぬいぐるみの類をああまでいじめぬくことはありません。かわいそうなので。一度だけドンとぶったり、床に叩きつけたり、その程度です。それ以上はやっぱり、かわいそうですから)
(それと、家具やら様々なツールの傷み具合も、マンガ程あからさまではありません。パッと見にはかなり普通です。近寄ってみると「あ、へこんでる」「ちょっと傷が・・・」という程度のものです。モノに寄っては、痛々しい傷やへこみもありますが、「この家で誰かが暴れている…」などとは誰も勘付くことはできないのではないでしょうか)
既 にイライラしまくっている中、そういうしくじりをした場合は、バンバン狂ったように折檻 を加え、気分が多少落ち着いている場合は、そのモノを、軽く3度打つ(ほとんどそれは、ドアをノックするような感じ。イライラの度合いによって軽いノックもしくは強いノックへとシフトチェンジ)、そういう形で懲 らしめてやるのです。
あと私は、暑さ寒さが大の苦手で、両方とも同じくらい得意じゃないのですが、そのせいでイライラさせられるのは、断然「暑さ」、これはもう本当に、許せません。汗だくになるのが大嫌いで大嫌いで・・・ ちょっと汗ばむくらいでも、ムシャクシャしてしまいます。
それもあって運動が嫌い。「さわやかに汗を流す」とかワケ分かんない…
何年も前にギャルの方々が「激おこぷんぷん丸」という言葉を使っていたそうですが、私の言う「激怒」は、そのようなかわいらしい響きとはかけ離れた、もっと正真正銘 荒々しい、周りが完全に引くであろう、怒り方なのです。
モノに制裁を加える、にとどまらず、私は、ブルブルと体を震わせるのです。
ブルブルが正しいのか、ワナワナという方が適切なのか、その両方が混ざった感じというべきか、いずれにせよ、体をブルブル震わせてしまう程の怒りを心内に感じてしまうのです。
そしてそのブルブルにはもう一つの意味があり、そうすることによって私は、心内に感じる耐え難い怒りを追い出すように―—払い落とすつもりで、何度か頭を振るということをしてしまうのです。
それはこんな感じです。
怒りを振るい落とすような感じで、頭を左から右へ強く振る、という動作を1回から数回(怒りがひどくない場合は1回、というように、怒りの程度によって回数が変わる)繰り返すのです。その際肩も怒 らせた状態でしょうから、ちょっとそれは北野たけしが首を振る動作に似ているかもしれません(それをもっと強くする感じ)。
そういうとき手は、拳 を強く握ったり少し開いたりというのを繰り返し――その動作もなんというか、裡側 にある怒りを外へと追い出そうとするような、そういう心情が働いているように思われます。
怒りが収まるまでブルブルは続きます。
その間カラダは大変な緊張を強いられておりますから、怒りの発作が収まった後というのは、身も心もグッタリで、何をする気も起こりません。
いちおう嵐が去って、しばしボーゼンのひと時に移行するワケですが、その裡側は、ぼんやりカラッポではなく、ネガティブな思いでいっぱいになっております。
比較的大丈夫な時などは、そこから徐々に立ち直り、再び大丈夫になったりするけれども、調子が悪い時だと、ネガティブな思いが次から次へと湧いてきて、それがまた怒りを引き起こし、些細なことにも激怒して、心身共に疲労困憊 ということになってしまうのです。
小さい爆発から大爆発まで、色々合わせて、日に何度となくそんな修羅場 を演じてしまっているのです。そうやってどんどんどんどんエネルギーを漏 らしまくっている、そんな状態です。
「エネルギーはもう、ありません・・・」
と身も心も疲れのピークに達しているのに、叫び出したいんですね。
そうして、怒りが私を強引に叫ばせます。強引に、ムリヤリ振り絞って、叫びます。そんなことを何度か繰り返していると、本当にもうズタズタです。
朝が特に危険な時間帯です。
起きていきなりグッタリで、既にムシャクシャしており、ネガティブ思考の塊 みたいな状態だったりするので(毎朝ではないが)、極端に怒り易く、怒りの小・中・大爆発を家じゅう至る所で起こす結果となってしまいます。
一挙手一投足が疲れる。何もしたくない。
しかしそうも言っておれず、朝のお掃除を含む家事一切は一気に終わらせるのがルーティン として定着しているので、やらねばならない・・・
だから老体に鞭 打って、これも強引に、なすべき事をかたづけるよう動き回ります。
朝起きてからいっぺんにやろうとしなくってもいいでしょう。時間帯を分散させてみたら?
その方が気持ちにも余裕が持てるんじゃない?
ごもっともです。
なのでそうした試みも経てきました。そのうえで、一番そのルーティンがマシだということが判明したのですよ。
私の性情として、「イヤな事・やりたくない事は先に終わらせてしまいたい」というのがあります。一気に終わらせて、あとは心置きなく自由を満喫 したいーーそういう心情ですね。
イヤな事・やりたくない事が多少なりとも先送りされた状態だと、心のどこかでそれがちらつき、気になってムシャクシャを引き起こしてしまうのです。
家の掃除を思い切って夕方にもっていったこともありました。しばらく試した結果、案の定、大失敗に終わったのです。
まず、夕方辺りというのは、主婦の方ならばお分かりでしょう、まさにクソ忙しい、そういう時間帯なんですね。
夕飯作り、というのがあります。もうそれだけで、殺気立 つ要素満載 です。
その少し前に息子帰宅(4時頃)、そしてまさに夕刻、ダンナが帰宅。これで全員集合。
一気に空気があわただしくなります。高敏感気質の私にはかなりの試練を伴います。夕食作りの修羅場、全員集合のドタバタ・・・そんな中で私は、忙しさにクラクラしながら独楽鼠 のようにクルクルと働くのです。そうです、爆発しがちです。戦場のように荒々しい状況です。
そんな夕方・・・夕飯作りの前にせよ後にせよ、家の掃除をするなんて、まったくあれは自殺行為に等しい実験となり―—午後2~3時辺りも試しました、がダメでした。というように何通りか実験した結果、
朝起きて、強引に一気に終わらせてしまう方が
無難だな
ということを覚 ったのです。老骨に鞭打って。
「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」という状態がとてつもなく苦手で、「夕飯作りの後は、アレとコレとアレ、でその後にアレがあってコレがあって、それからまだアレも残ってる… でその後にコレが来て…」などと、頭の中にやらねばならないことがワーッと押し寄せ、それらに関する段取りを「ああして、こうして」と事細 かに考えている内にいっぱいいっぱいになり、ブチ切れてしまうのです。
100%いつでもブチ切れるワケではありません。すでに忙しい、そしてその先も続くであろう忙しさの種、それが山積みである程、そうです、キレ易くなります。
一つ一つ片づけて行って、先のことはあーだこーだ考え過ぎないこと。
と自分に言い聞かせる時もあります。
このアドバイスが通用する時は調子が悪くない時なので、調子が悪い場合は、考えまいとしても様々なネガティブ思考に襲われてしまい、やる前から色んな段取りを・事細かなプロセスを思い浮かべて、動く前からもう疲れきってしまうのです。
やる前からうんざりしてしまうのです。
これ👇も主婦あるあるではないでしょうか・・・
A 地点(寝室)からB地点(台所)まで何等かの用事があって行くとします。 A地点からB地点までの距離は、小さな家ですから大したことありません。短い廊下 を通って茶の間を通過したらそこは台所です。
その短い距離の間にどれだけの仕事が転がっていることか・・・!
私はAからBまである一つの目的をもって移動するワケですが、その初めの目的をつい忘れてしまう程に、A~Bの間に予定にはない仕事・やるべきことを発見してしまうのです。 3つか4つ、仕事が新たに加わってしまいます。
A地点からB地点でも、C地点からG地点でも何でも構いませんが、ある一つの目的を果たす前に、更なる仕事が雪だるま式に増え、「いつまで経ってもB地点に辿り着けない!」のようなジレンマに陥ることがしばしばあるんですね 。
それは、ダンナや息子によって放置されたモノをもとの場所に戻す、とか彼らが汚した辺りをきれいにする、とか引き出し開けっ放し・ドア開けっぱなし、のように、たいていは彼らの仕業なのですが、そういうおかげで私の仕事は山のように膨 れ上がってしまうんですね。
A地点からB地点まで、あたしはまっすぐに行きたいの! それだけの事なのに、なかなか辿 り着けないの!!
と絶叫したことがあるくらいに、家事が止まらないのです。
じゃあ、毎日なんて掃除しなきゃいいだろう。そんなに疲れるなら
それもごもっともです。
が、キレイなお部屋を見ると心まで洗われるように、スキッとし、逆に汚れている・散らかっている状態を目にすると気が滅入 ったり、腹が立ってしまうので、精神衛生上の観点から言っても、毎日お掃除せずにはいられないのですよ。
黙って聞いてりゃあテメエ、文句やら言い訳ばっかりだな。泣き言いうんじゃねえ。
ホント、そんな感じですね。
私も段々と、皆さんに私の愚痴 をぶちまけているだけのような、そんな気がしてきました。
心苦しい。
しかし!
私の怒りの問題について語るのに、そこら辺を避けて通るワケにはゆかないのですよ!
どうか皆さま、ご辛抱下さい・・・
そして、このようなご指摘も聞こえてくるような・・・
専業主婦の分際で多忙ぶるんじゃない。
世の中には外で働いて、家に帰ってからも主婦業をこなしている人たちだっているんだゾ。
おまけにお前は、何だ、ダンナ一人息子一人、お前を入れてたったの3人、っていう少人数家族だろう。全員集合って言ったって、高 が知れてるわ。
世の中には、子供が2人以上の家庭がたくさんあって、母さんたちの仕事量はお前のそれと比べ物にもならないくらい、スゴイんだぞ。彼らが大丈夫で、お前が大丈夫じゃないっていうのは、おかしいだろう。エェッ?!
はい、私自身、まさにその点を不思議に思ったことがあります。
「私以上に多忙を極める人たちがたくさん居る。それでも私のような問題を抱えることなく、頑張って仕事をこなし、いろいろなことを乗り越え、毎日を過ごしている・・・ なんで自分にはそれが難しいのか? 彼らのストレス要因の方が多いだろうに、どうして私は耐え切れずに、怒り狂ってしまうのか?」
などと考え、
自分は、人間失格ワガママ弱小バカ女なのか・・・?
という疑問が浮かんだりしたこともありました。
けれども、自分なりに学んだ結果見えてきたのは・・・
私を心身ともに疲れやすく、またキレ易くさせているのは、そうです、第一にHSP(高敏感気質)に起因しており、そのおかげで小・中・大の爆発をしばしば起こすものだから、エネルギーの消耗 が著 しい―—そんなこんなで私は、いくつもの精神的問題を更に抱えるに及んだワケなんですね、平たく言うと。
「ネガティブ→疲れる→イライラ→激怒→ネガティブ→疲れる→イライラ→激怒→ネガティブ→疲れる→イライラ→激怒・・・・・・・」
という負のスパイラル状態。
イタチごっこ、堂々巡り・・・鶏 が先か卵が先か?なんてのも浮かんできます。
ネガティブだから疲れちゃうのか、疲れているからネガティブになるのか・・・どっちだ、どっちが先なんだ! どっちが正しいの?!
・・・どっちも正しいんでしょうよ。
続きは ★アンガー・イッシュー(易怒問題!)② をどうぞ。
とは、どういうつもりで言ってるのか?
極々親しい数名の友人(小学校以来のつきあい)を除いては、どうも人々に対し、目に見えない深い深~い溝、若しくは縮めようのない遠い遠い距離のようなものを感じてしまうのです。まるでお互いが異星人同士であるかのような、奇妙な違和感と言いますか。
こうして文章にして表すと、何かちょっと普通じゃないみたいな、気妙な印象を与えてしまうのかもしれませんが、これを「なかなか人と馴染めない」という具合に言い換えれば、殊更に奇異なことでもなんでもなくなります。
じゃあなんで、異星人 とか持ち出すんだよ。なかなか人と馴染めない、仲良しになれない、とでも言っていりゃあいいだろうに。
妙な言い方をしたがるんじゃない!
というお叱 りの声が聞こえたような・・・
確かに、そのように言い表すことも可能です、が、それだけでは何かが足りないのです。それに対する私の思い、人に対して感じる違和感には、まさに「異星人」と言い表すに足る、得体の知れなさが含まれるので、そのくらいに遠いものを、越えられない壁のようなものを感じてしまうのです。
(実はこの「異星人」。「異星人」という別枠を設けてでも語るべきそれなりの経緯があるのですよ。
今それを言ってしまうと、脱線してしまいますからね。それに何よりもバカだと思われるので、今は言えないのです。今、貴方を呆れさせ、貴方に去られては困るのです!)
家族となるとまた話は違ってきます。
例えばダンナと息子。彼らに対し「異星人だな」というような気持ちは起こりません。いや多少感じるところはあるでしょうが、越えられない壁・遠い遠~い距離のようなものは無い、そう感じられます。
私の両親を含む肉親について考えると、…壁はない(壁ほど頑丈ではなくって、垣根のようなものはおそろしく在る)、どうしようもない深い溝、も無いような気がする。でも「異星人だな」という気持ちはかなり湧いてきます。
(とは言ったものの 、こういうことは状況次第で感じ方がコロコロと変わります)
こちらがそう感じるということは、私自身もヒトから「得体が知れない」のように感じられたりしているのでしょう。(実際これまで、それに近い感想を漏らされたことがありましたとおり。ミステリアス笑のような)
個性や我が強すぎる・協調性が足りない・甚だしい内向性などなどといった特質が、人々に対しておぼえる違和感の要因であることは察せられます。
これがもしも、団体競技大好き!団体行動大好き!といった人間でしたら、その行為の最中に得られる一体感、チームワークの素晴らしさなどを実感でき、ヒトの中に在って自分も溶け込むことが容易に可能な筈です(もちろんそういった人の中にも、例外はあるのでしょうが)。
みんなで事を成し遂げた時の喜び、それは本当に最高かと、私なりに想像はできます。…というか知っています。これまで生きてきて、団体行動によって得られる感動を一度も味わったことがない、などというワケではありませんので。
しかし、自分にとって自然に感じられるのは、やはり単独行動なんですね。一番これがやり易い。
スポーツ大嫌い。だけれども、水泳は得意。
そしてこれも、一人でできる運動よね。
・・・というように、自分に対して「人でなしか?」という問いが浮かぶ時、私は、人間として何かが大きく欠落していることを、ぼんやりながら、思ったりしたものでした。
先にお伝えしたように、私は、自惚 れのキツイ愚か者で、自分をやっつけることがとても苦手な人間ですから、そうしたことを思ってとことん凹みきってしまうなどということはありません。
ですが、自分に対し「人間としては欠陥品 」のような思いが浮かんでしまうことは、やはり悲しいものです。
HSPについて学ぶことで、自分に見られる好ましからぬ面が、物事に敏感に反応しがちな性情によって引き起こされるのだということを再認識させられました。
そして、そういった性情の故 に、外界の刺激から己を守るべく「一人になることを欲し」たり、過度な刺激に耐え切れず、己を楽にしてやる方向へと強く傾いてしまう―—それによって、「自分最優先的傾向」や「辛抱が足りない」といった状態に陥ってしまうのだな、と。
超繊細な気質であるが故の自己防衛対策 、そんなふうにも言えそうです。
自分しか愛せないのかも、などという自分に対する疑問も、先に記した自己防衛に関係しているとも言えるでしょうし、また掘り下げてものを考えがちな性情が、必要にも不必要にもあらゆる可能性を思い描き、そこからこうした疑念が引き出されてしまった、などとも考えられます。
そもそも「愛」って、簡単じゃないですよ!
ここでいう「愛」というのは、色恋に通じる情欲やら情熱とは完全に異なる、正真正銘 の愛、究極の愛を指しております。エロスに対する「アガぺー」の方、それともアガぺーに通じる愛、の事でございます。
この「アガペー(agape)」、広辞苑によると、「神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵 を与える自己犠牲的 な行為で、キリストの愛として新約聖書にあらわれた思想」とあります。
よって「アガペー」は、無条件の愛・無償 の愛・非打算的な愛、といった解釈のされ方もしております。
好き好き大好き!!の、いっとき激しく燃え上がっては、徐々にその火力が衰え出す、そういう種類のLOVE情欲とは、やはり全く異質のものです。
「愛」というのは、私にとってはまさにそれですから、・・・未熟者な私にはまだまだ高いハードルなのです。
こういう至高の愛を体現できるヒトというのは、そうゴロゴロ居るとも思えないので、そうなると、何も「自分しか愛せないのか?この私は?!」などと一人悶々 とする必要もなく、なんというか、
人類のほぼ全員が、そのようなもんだよ、あんただけじゃない。
というワケで、ちょっとはホッとさせられます。
しかし、・・・この「愛」について思う時、浮かんでくるのはやはり母親の事なんですね。
私と両親とは、意思の疎通 が困難な親子関係で、最悪な仲、というワケではありませんが仲良し親子などとは到底言い難いそういう間柄でした(私が日本に居た頃)。
反抗的で生意気な私でしたから、親としてはかわいくない子供であったんじゃないか、と思います。
そこで不思議なのは、その憎たらしい私を、母はサポートし続け、私が望む方向へむかえるようにどこまでも助けてくれ(人はそれを、甘やかし、というのかもしれませんが)、・・・そこがどうも、私には不思議なのです。
私は、親の期待を一身に背負って、などというような有望株であった試しは一度としてなく、いくつになっても風来坊 、そのような娘でした。親の果たせなかった夢を、子供に託され、などということも一切なく・・・
だからこそ自由にやってこられたのですが、同時にそうした親子関係が淋しく感じられることもありました。
期待をかけた可愛い我が子、というのならば分かります。いくらでもやってやりたくなることでしょう。でも私は、やはり彼らにとって微塵 も期待の星ではなく勝手なことばかりしている娘なのでした(いわゆる黒い羊的な存在ですね)。
それなのに私をどこまでも、見捨てることなく、支え続ける、っていうのは、何ということだろう・・・と、未熟者の私には不思議なんですね。
そういうのを無償の愛というんだろう、と考えないではいられません。親というのは、スゴイです。親はそれを「親なんだから当たり前」と何でもない事のように感じているようですが、私からしてみれば、全然当たり前のことではなく、スゴイこと、なのです。
それができない親たちだって居ることを思うと、尚更です。
くどいようですが、全然仲良し親子ではない、にもかかわらず、電話で話をする際など、母の声を聞くと、私の身を案じてくれているその心がよくよく伝わってくるのです(父もそうですけれど)。
何の見返りも期待しない、そういう愛情を感じるのです。
それはまるで「アガペー」か!?というくらいに・・・(厳密に言うとやっぱり、アガぺーではないんですけどね)(「愛」についてはまだまだありますから、また別の機会にでも)
私はまだ、両親に対して何も恩返しできずにいるバカ娘・親不孝者に違いありません。それなのに、それなのに、気にかけてもらえるとは!!
「愛」を熱く語るうちに、また話が脱線するところでした!
ムリヤリ戻します。
そう、人類の大半に対しておぼえる違和感・・・
人類の大半にいつ、いつどこで会ったって!?
・・・これなどはもう、HSPならばそのように感じて当然だ、ということですね。こういう気質じゃない人間がこの世の80%程を占める、となると。
と納得したところで、別にハッピーになれるワケでも何でもありません、が、理由のうちのいくつかを知り得たということは、なんだか一つ前進したような、そんな気持ちにさせられます。
やはり、こうして学んだことは、「答」というよりも、ヒントとか鍵のようなもので、そこから先は、自分自身で動いて、探してゆかなければならないのだ、と、このおばさんはつくづく思うのです。
貴方はどう思われましたか?
しかし、HSPであることを言い訳にして、己の悪い面を正当化したり「こういう気質だから仕様がない」と言って居直ったりすることの無いよう、私のような者は注意しないといけません。
HSPの皆さん、共に頑張りましょう!
私のような人間は、攻撃性と平和主義が綯い交ぜになったHSPということになります。
平和主義といっても、いわゆる左翼とも違うわよ。念のため
「攻撃性と平和主義が綯い交ぜ」というのはいかにも矛盾するようですが、人間の内面には相反する感情や思いが平気で共存していたりするものです。
例えば、二つの正反対な思想、その両方に惹かれることが可能であるように、そうした自家撞着ともみなされるような多くの矛盾をヒトは色々に抱えているのです。(と、言い切りましたが、そうした傾向の有無や程度の違いは、やはり気質や性格によって異なるのでしょう。私にはその傾向が大いに認められます)
HSPのセルフテストの結果が私の場合、27問中24問YESでした、とお伝えしてきました。
そして前回、その後半辺りで、ハイとは言い難いHSPの特色についてもいくつか触れました。
27問中24問もYESと言っておきながら、なんでそんなにいくつも該当しない点が出てくるんだよ。ワケ分かんねぇ。
と誤解されてしまうような書き方をしてしまったかもしれませんので、ちょっとつけ加えますと・・・
テストに見られる問というのは、ピンポイントで表されているようでありながら、実はその一つ一つが、掘り下げるとかなり細分化され、事細かな事柄へと及んでいったりするものです。単純な問題であれば事は明白です、がそうでない場合はいくつもの解説や注釈が要されます。
というワケで、セルフテストの諸問題はざっくりした問いかけであり、それに対しざっくり答える、というのがこうした心理テストの流れとなります。(ざっくり答える、とはいっても、何とか自分にとって最適な答を選ばなければいけないワケですが )
そのようにして答えた結果が「27問中24問YES」であり、テストとは別に、細かな解説を読んでみると、そうです、いくつかの点で「これはあたしじゃない」「そういう言われ方をされると、ちょっと違う、あたしじゃない」となってしまうのです。
「こうしたテストはあくまでも心理を探るための材料であり、これによって最終的な診断結果が導き出される、というようなものではない」といった内容の伏線がアーロン博士のHPに在りました。なのでこの場合も、診断結果はあくまでも参考程度に、ということになります(=より正確な診断を得るためには、専門家による適切な診察が不可欠)
何だか、要らぬ説明を加えてしまったような気もしますが、どうでしょう・・・
そう、私はまだ、このHSPに関しては専門家の診断をあおいだことはございません。
ですがアーロン氏の本を読む限りでは、己のHSPさ加減が相当なものであることを思い知らされるばかり、なのでした。
別にHSPになりたくてなりたくてしようがない、などというワケではありません。ただあからさまな事実、と言わざるを得ませんから・・・こんなものを長々と書いてしまっているのですよ。
前置きはこのくらいにして・・・
長ぇよッ!!うぅぅうぅん怒
HSPに関する研究は1991年に開始され、1997年に「The Highly Sensitive Person : How to Thrive When the World Overwhelms You 」が出版されました。(日本では、「ささいなことにもすぐに動揺してしまうあなたへ。」として出版されております。が残念ながら、その翻訳に関してあまり良い評価を耳にしません。私自身はその日本語訳を読んだことはありませんが、そうした低評価の感想を聞く限りでは、お勧めできない、そんな気持ちにさせられます)
私がHSPについて知ったのは、ほんの去年(2019年)のことなのです。そのような研究がなされていたとは、まったく知りませんでした。
これを知ったことで、慰められた点、安心させられた点が私にもいくつかあります。 私がこれまで自分自身に対して抱いてきた疑問、それに対する答えのようなものをこのHSPの中に見つけることができた、と言いましょうか。
これまでに何度か私は、
こういう自分って、人でなし?
のような問いかけを自分に投げかけたことがあります。
●自分しか愛せない人でなし
●「一人になりたい」人でなし
●辛抱が足りない人でなし
●「人類の大半が、自分とは異なる生き物であるかのように感じられてしまう」人でなし
と、思い出されるままに挙げてみました(頭が悪そうですね)。
「自分しか愛せない~」と「人類の大半~」が中でも深刻な問題をはらんでいるように思われます。
とは言え、いつでもしばしばそれらを深刻に思い、考えてしまう、などというワケではありません。もっと言うと、この4つともすべて、平生は殊更に気に留めるでもない事柄なのです。
何かの折に、己の自己中心性を痛感させられることがあり・・・
「自分のことが最優先」である己が居ることを感じてしまう瞬間などに「人でなし」というのが浮かんでくるんですね。
「人間、終局的には自分が一番大事なの。突き詰めればみんな、利己的 。人間というのはそういう生き物ですよ。
人でなし、どころかお前は、人間そのものですよ。」
などという心の声も聞こえてきます。
独り身の時は「これでいいのだ(バカボン)笑」で居られましたが、晩婚ながら自分にも伴侶 ができ、子供まで授かってみると、これが笑では済まされないような、重い問いかけとして「人でなしか?」が響くようになりました。
「自己中心的」ならまだしも、「自分が一番大事」となると、それが本当なら「子供を愛する以上に、自分のことをまず愛しているのか、この私は?」ということになってしまい、・・・そこを突き詰めるのは、私にとってかなり恐ろしいものがあります。
だからあえて突き詰めようなどとは思わない、思わないんだけれども、浮かんできちゃうものはしようがありません。
お前は、子供のために自分の命を投げ出せるか?
のような問いかけ・・・
これに対し「もちろん!」と答えられるのが親というもの・・・それが世の通念であり、実際にそれが可能な親たちが大勢居る筈です。
それなのに、この問いかけに恐怖を感じる自分が居るのです。もちろん!とは即答できない「人でなし(?)」な自分。
そもそもアンタ、誰のことも、本当には愛せないんじゃない?
という声が、心の中に広がります。
いえいえ、ダンナも子供も、私にとって大切な存在でして、大切な人間ランキングがあるとすれば、彼らがその上位を行くことは間違いありません。しかし、「自分自身よりも? ホントに? 1位は結局自分、でしょう?」とその辺を想うと、やはりゾッとせずにはいられません。
女房失格。親失格。・・・・・全部総合して
人間失格。
なんていう言葉も浮かんできます。
(ですが、ご安心を。
自分を労わることに長けておりますので、不必要に己を責める、という方向へは向かいませんので…)
「ただ私は、馬鹿正直で、未熟者。それだけのこと」
とそんなふうに自分に言い聞かせたこともありました。そしてそれは事実かと。
35歳辺りで結婚して、それまでずうっと独り者で、ほぼ自分のためにだけ生きてきたような自由バカ、そんな状態の私でした。
つまり、そうです、未熟者なのです。
(独身者=未熟者、だなんてまったく、言ってませんよ! 私という人間が未熟者なのです)
そんな人間が、結婚し、子供ができたからといって自動的に「女房合格」「親合格」「人間合格」というような成熟した人間に変身できるワケじゃありません。
結婚してもう20年近くになりますが、私はまだまだ未熟者です。
私の場合、成熟するのに人一倍時間を要するのでしょう。
ダンナや子供のために、
.....自分の命を投げ出せるか?
などという問いかけには「その時になってみなければ分からない」というのが正直なところなのです。
実際にそうなってみたら、投げ出せるかもしれない・・・それともやっぱり、ダメかもしれない・・・という。(その土壇場になってみたら「つい思わず、投げ出す方向へ体が動いてしまっているんじゃないか」のように想像することもできたり)
こんなことをもし、世の肝っ玉母さんに呟いたら、
あんたねぇ、あんまり考え過ぎるから、ワケわかんないことになるんだよ。
あんたも人の親なら、だいじょうぶ、できますよ! 命を投げ出すことくらい。
土壇場になれば、できます!
という具合に活を入れられるんじゃないでしょうか。
そんなふうに単純明快なら良いんですけどね。
(深く考えがちなのがHSPですから、「あんまり考えるんじゃない!」と言われ、考えないようにすることの方が、拷問なのです)
そして、「一人になりたい」人でなし・・・ このことを思う時、ある出来事が浮かんできます。
20代半ばで親と同居、そんなある日、洗面所で身支度をしていた私のところへ母がやって来て、何やら言いました。そのとき何を言われたかは、この際重要ではありません。ただその時に、邪魔 が入ったことでキーッとなった私が、母に何やら言い返し、それに対して母が、
お前なんか、一人でどっか行っちゃえ!!
一人だけの世界に行っちゃえばいいんだ!!
のようなセリフを私にぶつけてきたのでした。いい歳した娘が未だ親の脛 をかじっているのですから、そうどやしつけられても致し方ありません(文句だけは一人前な私、なのですから)。
問題なのは、そんなふうに言われてちょっと傷ついた、などというワケでもなく、ただただその言葉が、とてつもない魅力を伴い私の心に響いてしまった、という点にあるのです。
「ああ、一人になりたい!」という心の叫びは特筆するに値しないいつものこと、なのでしたが、そのとき母が口にした「一人だけの世界」というのがまるでこの上ない理想郷のように想われたんですね。
そんな独りぼっちのパラダイスに、
行けるものなら、行ってみたいワ!!
と激しく願っている自分が居りまして・・・
究極の夢の国――独りっきりの夢の国、そのイメージが瞬時に私の心を領し、異様なまでにその境地に惹きつけられてしまったのです。
憧れの境地・・・
と、次の刹那、私の心にこんなイメージが浮かんできました。
私のカラダがピッタリ入るくらいの、浅めの箱に、膝を抱えた自分が横向きに収まっているのです。
・・・ぜんぜん楽しそうじゃありません。
まるで、生ける屍。
そこで私は、ハッと我に返り、ゾ~ッとしたんですね。
心胆を寒からしめる、とはああいうことかと。
それは正に死を連想させ、私をゾッとさせたのです。さすがに、これはいかん、と思いました。
ほんとうに、いけません。このようなことでは。
更に、辛抱が足りない人でなし・・・
これは主に学校生活を指しておりまして、これがどうにも、イヤでイヤでたまらなくなってしまうんです。いじめられたワケでもありません。
主に許せないのは、一定の時間、長々と皆と一緒に同じことをしなければならない――これが無性に辛いんですね。
「学校とは、学びの場・協調性を培う場所」ということはもちろん承知しております。本来は有益な場所なのだということも理解できます。
ただ、自分には耐えられないのです。好きな教科を学ぶのは楽しい、だけど人と一緒にやらねばならない、というのが苦痛。
おばさんなのに、学校生活?
・・・そう、ちょっと妙ですよね。
この話も長くなりそうなので、申し訳ありません、これに関してはまた別の機会に思う存分語らせてもらいます。
「人類の大半が、自分とは異なる生き物であるかのように感じられてしまう」人でなし
(長い!!)
読んで字の如く、なんですが、これまた話せば長~い物語ですから、ここではサラッと、何とか頑張って短めにお伝えしてみます。
★高敏感気質人間・HSP ③ に続く・・・
ところで「性質」と「性格」 実はこの二つ、似て非なるものなんですね。
性質の方は持って生まれた資質・特質・気質で、性格というのは先天的な面と後天的な面が混ざり合って培 われていったものなんだと。
なので、環境やら他からの影響も相俟 って徐々に形成されていった「性格」というものは、努力次第で変えられるんだそうです。
とはいえ、よっぽど腹を括 ってかからないことには、ムリですよ、性格を変えるなんて。しかし世の中には、それをやってのけた人達の話だってありますから、確かに、全然不可能ではないんでしょう。
そう、ここで語るのは、「性質」の方です。
もっと更に、根深いところの話です。
…その根深いところを、マンガでまず、さらっと…
いろんな美点って、いったい何のことでしょう・・・
と、それについて語る前にHSPの大まかな特色、そしてその「セルフテストって、どういうの?」という辺りについてお話ししましょう。
ああ!ここでまた、例の壁にぶつかってしまいます・・・!
このブログでは、私個人の経験をもとにモノを言う、というのが大前提にありますから、特色などについて「うぅううぅん、どっからどこまでここに書くべきか?!」で悩んでしまうんです。
「要領よく端的に情報をお伝えすることが苦手」なおバカさんなのです(ちょっと謙遜 😊)
他から得た情報をコピペ、ならば簡単ですけど、それはやっちゃダメなこと。なのでやりません、そしてやる気も起こりません。
ということで、何とかざっくりと要点をお伝えするように頑張ってみます。
(「あんた、詳しく書けないんかい!」とおっしゃられた貴方、よろしければ、こちらをどうぞ ★「自分で調べろ」だって? バカ言うな!)
(そうです、詳細に関してはHSPで検索を! いくらでも出てきます! あと「本」で調べてネ)
私がHSPについて知ったきっかけというのは、「The Highly Sensitive Person」の著者であり、この気質を有する人々をハイリー・センシティブ・パーソン(際立って繊細なヒト)と名付けたエレイン・アーロン博士(Elaine Aron)の、まさにこの本によります。HSPにかけては第一人者ですね。
アーロン博士による、HSPの重要な4つの特徴として、
①考え方が複雑、且 つ深く考えたうえで行動
②外界からの刺激に敏感なため、疲れを感じ易い
③周りの人の感情を読み取り、周りに合わせようとする・感情移入しやすい
④微妙な物事に対する感覚が鋭い
を挙げています。
それぞれの項目に関する詳細を読んでいると、まるでHSPが特別な能力を身に着けたスゴイ人間であるかのような気持ちにさせられ、紛れもなくHSPの私としては、なんだか大変気恥しいものを感じずにはいられません。
いやいや、そこまで素晴らしくないだろう…
(苦笑)
というように。
と同時に、アーロン博士がHSPの特性である素晴らしい面を書き連ねたのには、第一に研究の結果を率直に提示したまで、というのはもちろんの事、「誤解されたり孤立しがちなHSPを励ましてあげたい」のような意思が働いていることも当然察せられないワケではございません。(あと誤解している人々に向けられたメッセージでもあり)
因みにアーロン博士ご自身もHSPです。
それもあってつい「自分のことを、そこまで褒 めちぎるか先生・・・苦笑」となってしまった、とも言えます。
しかし、HSPの特質のうちには「自己否定感が強い」というものも含まれるので、その傾向の強いHSPさんにとっては、それが大変な励みになるものとも理解できますから、「自画自賛はやめろ先生」などと批判しているのではありません、言うまでもなく。
ただ、そうなんです、自画自賛しがちな自惚 れのキツイ私なので、そんなふうに褒められると、照れちゃうんですね。
「自己否定感が強い」という点は、私にはまったく該当しないのです笑。自己肯定感 のハンパなさ、ある意味スゴイです。(子供の頃は、またちょっと違いましたが)
なので、
「君は、本当は素晴らしいんだよ! 間違ってなんかいないんだよ!」
のように励 まされたら、「もう知ってる」ので(きゃあ!)改めてそう言われたりしますと、かえって不可解…「私のこと、何かひどく誤解していやしませんか?」としか思えないでしょう。
その自信はいったい、どこから?
と問われれば、このように言わせてもらいます。
幸い、若いうちに自分がやりたいこと、目指すべき方向等を知ることができたから
と。
これは私が生きてゆく上で、大変な強みとなりました。絵や文章で心の裡 を表現する、そこに専念してゆきたい、という思いです。社会的な成功を度外視して、それはどこまでも、自分が生きてゆくために不可欠な行為、そのように感じられます。
つまり何というか、問題多き自分に自分自身で芸術療法を施 していた、そんな感じかと(意図せずして)。表現することで心の問題を昇華 させるのです。
自分の裡側 に湧き上がる様々な思い、それらが皆、表に出たがっている、そんな状態です。そして、その一つ一つを自分の手で外側に出してあげた時、目の前に一つの世界が作品というカタチで生まれます。自分の裡側に在ったものが、いま目前に存在して、息づくのです。これを目の当たりにするひと時というのは、まさにカタルシス に相当するんですね。そうしてまた、自分の裡側の世界を如実 に描き出せた時の喜びは、大きな達成感を伴い、そこに自信というものが生まれる、そんな感じではないでしょうか。
また、大層 な物言いをしてしまったようで、お恥ずかしい。
話も少しそれてしまいましたね。
そうです、HSPに関する褒めちぎり、ということでした。
先ほどの①というのは、「HSPの脳が、より深く情報を処理し、探求することに長けている(Depth of processing)」ということなのですが、これに対しては自惚れ屋の私ですから「そう、その通り」と臆面 もなく頷 けたりします。が、
「一を聞いて、十のことを想像し、考えられる」
という言い方をされると、まるで聖徳太子の「いっぺんに十の質問を聞いてそのすべてに応答した」みたいな(全然違ってる気がする。それにそんなの、いくらなんでも不可能。…で、今調べたら「一度に10人の意見を聞き分けられた」という言い伝え、だそうで)…とにかく、その言い回しのせいで、スーパー(超人的)な感じがして、さすがに頷くことがためらわれます。
しかし、…よくよく考えると、そのようなことはしてるな。
ううぅうん・・・してるような気がする。
・・・いや、してますね。(ホントかよ)
超人とまでゆかなくとも、それは正に「一を聞いて十を知る(非常に賢い)」みたいですから、やっぱりちょっと、これに「YES」と答えられるだけの図々しさや勇気が私にはございません。
あと「あらゆる感覚が鋭い」と言われても、これまた超人みたいで、即座に「ハイ」とは言い難い。
更に、もっとハイとは言えない事柄としては、
「言葉による意思の疎通がムリな幼児や動物、彼らの気持ちを察知できる」
・・・これはもう、きっぱりNOですよ。普通に、分かりません。
「第六感が鋭く、またそれがよく的中する」もそう、迷うことなくNOです。
そういうESP風に研ぎ澄まされたものは、私には無い、と思うのです。私は大ウソつきじゃありませんから、無いものは無い、のです(無い、と思っているだけで、実は有るんでしょうか笑)。
「それは正に私!」に関しては、
まだまだいろいろありますが、このくらいにしておきましょう。
とここまで書きましたが、
え、何が褒めちぎり? どこ?
別に褒めてないじゃん
と貴方、お感じになられたかもしれませんね?
いやいや、本を読みますとですね、HSPの特筆すべき能力として、「素晴らしい創造性、洞察力 、思いやりや情熱の深さ」が挙げられ、それらの能力や資質が社会に於てどれだけ尊ばれるか、語られるんですね(そしてそれは事実ですけど!)。
それがHSP当人である私には聞いててちょっとこそばゆいのですね。どういう重要な社会的ポジションに向いているか、とか、いろいろ。
しかし先にお伝えしたように、アーロン氏が、その辺を強調するのも無理からぬこと、として「多くの人々の無理解により、HSPが単なる≪臆病者・恥ずかしがり屋・弱い存在≫であるかのようにみなされてしまう」即ち「社会ではあまり役に立たない人達」のような印象を持たれている(そしてHSPの本人達――自己肯定感の乏しいHSPたちも自らを卑下しがち)、という点を指摘しておられる通り、残念ながらこれも事実です。
だからこそ、あえてHSPのポジティブな面・優れた特質について強調する必要があったのです。
アメリカでは、アレです、「静かなる哲人 」とか「能ある鷹 は爪を隠す」とか、そういうの通用しないみたいです。
私はそういうのを好む。
謙譲 の美学、とか・・・ ここでは、「ドシドシバンバン言わないと、バカだと思われ」また「おとなしいのはバカの証拠」なのですよ。発言すればするほど利口者で有益なのです(もちろんアメリカ人の中にも、違った価値観を有する人も居るんでしょうが・・・このアーロン博士のように。が、そうです、大多数は、「寡黙 =あんまり賢くない」というようなものの見方をする、と言って間違いないかと)。
ところで、セルフテストをご希望の方は、・・・それこそバカの一つ覚えで申し訳ありませんが、「HSP セルフテスト」で検索GO! テストと一緒に、とっとと基本情報も得られます。
バカバカと、ホント口が悪いのよねぇ…ごめん
私の場合、27問中24問がYESとなりました。(セルフテストは、サイトによって27問よりも少ない場合がございます。このテストのオリジナルはアーロン博士のHPで受けることができます。→ http://hspjk.life.coocan.jp/selftest-hsp.html)(しかしそのオリジナルのテストには、かなり似通 った問がいくつかありまして、先生としては、できる限り精密に診たかったんでしょう、が答えていてちょっと「これとこれとこれって、結局同じことじゃん」と感じざるを得ない点がいくつか見受けられました)
ではその、私自身に該当しなかった3つの事柄というのは
A 暴力的な映画やテレビ番組は避ける方だ
B 空腹に弱く、そのせいで集中できない・不機嫌 になるといった強い反応を示すことがある
C 作業をする際、それが競争であったり、観られているという状況下では、緊張したり震えてしまい、いつも通りの成果を出せない
なんですね。
A:暴力的な映画、相当観てます。
といっても、暴力的描写が観たくて、というワケではなく、ストーリーを語る上でそれが不可欠ならば、やはりそこを避けては通れないでしょう(良くないからといって蓋をする、のではなく)、という感じです。
B : 空腹に強くもなければ弱くもありません。
C : そういったプレッシャーに強いワケではない、けれども、緊張のあまりいつもの力を出せない、というのでも全然ないです。結構普通にできます。が好きか嫌いかで言うと、作業中を見られるのはキライです(見られている、ということで自意識が過剰に働いてしまい、それがちょっと邪魔臭い)。
また基本的に、競争にはまったく関心を持てない、けれども競わねばならない、となるとつい、負けず嫌いな性分が出てきてしまいます。
というワケで、私というのは、HSP中のHSP(内向的、人見知り)でありながらも、激情的な面も大いに具えているので、場合によっては強い態度にも出てしまったり・・・。典型的なHSPともちょっと違うんですね。
そもそもはとても平和的、けれども、「売られた喧嘩は買いますよ」のようなところあり
(アーロン博士は、HSPの中にも外交的なタイプは存在する、と言っておりますので、やはりHSPも一通りではありません)。
「周りの意見に呑 まれて、自分を見失いがち」や先述した「自己否定が強い」などといった傾向、私にはまるで見当たりません。自己嫌悪、とか私の辞書にはないのです。
などというと、まるでナルシシストか何か、みたいですね。
そうなのかもしれません。
モノを作る人間にはそういうところがあるんじゃないのでしょうか。
・・・ということで、その点はサラッと流すとしましょう。
しょっちゅう鏡を見てウットリ、とかそういうんじゃなくってね
はい、また、既に5000字以上書いてしまったので、「続き」へ雪崩 れ込みます。
クリック→ ★高敏感気質人間・HSP ②